関東平野の西の端、秩父へと続く山道の入り口・飯能に、クラフト作家が集まるシェアアトリエがある。その場所「AKAI Factory」の存在を知ったのは、『Turns』か『散歩の達人』か、雑誌でたまたま目にしたからだと思う。西川材をはじめとした飯能のクラフトカルチャーにも興味が沸き、いつか行ってみたいと思うようになった。
はじめて訪れたのは、3月の晴れた日曜日。まずは、ドライブがてら軽い気持ちでアポを取らずに訪れたのだが、シルバーアクセサリーを制作する作家・宮部太陽さんをはじめ、入居するクリエイターの皆さんが温かく迎えてくださった。さらに、近くのシェアスペース「Book mark」に案内してもらい、オーナーの赤井恒平さんとお会いすることができた。
地元の製造業の経営者というから、もっと無骨なタイプの方を想像していたが、いざ会ってみると都会的な雰囲気の漂うプロデューサーという印象を受けた。やはり都内で広告関連の仕事をしていたUターン者だという。
なぜ、地元・飯能に戻ってきたのか。地域の外の世界を知る立場として、飯能のポテンシャルや未来をどう考えるのか。その場でインタビューを申し込み、日を改めて話をうかがった。
−まず、赤井さんのご経歴からお伺いします。ご出身は飯能でいらっしゃるんですよね?
赤井:
はい。飯能出身ですが、中学校から市外の私立に通っていました。
−学校はどちらに?
赤井:
八王子にある明治大学付属の中学校に通い、そのままエスカレーターで大学まで進学しました。大学の専攻はロボット工学でしたが、途中で挫折してしまい、宝石や美術品を扱う商社に就職しました。
−AKAI Factoryではギャラリースペースもありますが、当時から美術がお好きだったんですね。
赤井:
母親が好きだったのでその影響があるかもしれませんね。幼い頃に観たマリー・ローランサンの展覧会が原体験にあります。
−今は家業の赤井製作所を継がれていますが、その前はリクルートにお勤めだったと伺いました。
赤井:
美術品関連の会社にいた時も「人にいいものを勧める」ことが仕事でしたが、より影響力のある仕事をしようと思い、就職して3年で転職しました。リクルート時代の経験は大きいですね。好奇心の塊のような同僚ばかりで周囲から良い刺激を受けました。
−リクルートでの仕事の内容は?
赤井:
結婚情報誌の広告制作でしたが、地方版で長野県や静岡県を担当していました。現地の営業と組んで取材して回ったのですが、その合間に観光をしたり美味しい飲食店を案内してもらったりして、何度も訪れるうちに「地方が面白い」と思うようになりました、
−地方の面白さってどんなところでしょうか?
赤井:
東京で暮らしていてはなかなか意識をしない、地域独自の文化があることです。個性的で元気のある店も多いですよね。
−そこから飯能に戻って家業を継いだ経緯は?
赤井:
リクルートって皆んな独立していく企業風土なので、僕も勤めて3〜4年経った頃に独立を考えていたんです。29歳の頃です。ちょうどそのタイミングで家業を継がないかっていう話があり、独立するなら自分にしかできないことを、自分の環境を生かしてやるのがいいんじゃないかと思い、継ぐことにしたんです。
それから、平日は製作所の仕事をしながら、土日に個人事業として撮影やライター、AKAI Factoryの仕事をする今のスタイルを続けています。
−赤井製作所はどんな会社なのでしょう?
赤井:
祖父が創業した金属プレスの会社です。バイクの部品などを100分の数ミリの精度で作る、ものづくりの世界ですね。2013年春まではAKAI Factoryのある場所で操業していました。
−ここ(AKAI Factory)は時代を感じる建物ですよね。
赤井:
創業時の赤井製作所は渋谷にあったのですが、戦時中の工場疎開で取引先のカメラ会社と一緒に飯能に移転してきたそうです。正確にいつ建てられたかはわからないのですが、少なくとも戦時中にはあった建物です。
最近、金庫の奥から当時の図面が出てきたのですが、それをよく見ると、小さな会社が5~6社集まってスタートしたようなんです。シェアから始まり、そしていまシェアアトリエになっている。そのことに縁を感じましたね。
−AKAI Factoryを立ち上げた経緯は?
赤井:
駅前なので「マンションを建てないか」って話もあったんです。ですが、元々建築が好きで、この面白い建物を壊すのはもったいないという想いがありました。加えて、祖父と父が生きてきた場所ですし、簡単に壊していいのかという想いもあり、そのまま使う方法はないか、と考えたんです。
その時に知り合いに教えてもらったのが、横浜にあった「ハンマーヘッドスタジオ 新・港区」というアーティストのためのシェアアトリエです。いまは無くなってしまったのですが、横浜港の埠頭に立つ倉庫のような広い建物の中を区分けして、たくさんのアーティストが活動している場所でした。そのハンマーヘッドスタジオに触発されて、規模は小さくても飯能で似たことができないか、と考えて動き出したんですね。
−アーティストのためのスペースということは、赤井さんの昔からの関心が生きたということですね。
赤井:
僕はアーティストではないですが、作る人のサポートをするのが役割だろうと。それに、飯能出身の人は飯能が好きでないという人も多いように思います。「何にもない場所だ」って。でも、「何にもないのなら何か作ればいい」という気持ちで始めてみたんです。それが2016年のことですね。
−入居されているアーティストさん達はどうやって集まったのでしょうか?
赤井:
最初にご相談したのが、シルバーアクセサリーとナイフを作っている「ホイールワークス」の宮尾真さんでした。シェアアトリエを始めたいという話に乗ってくれて、入居者を集めてくれたんです。最初は9組で、入れ替わりがあって今は7組。アーティストが集まるかと思っていたのですが、気がついたらみんなクラフトマンでしたね。
−クラフトマンとは?
赤井:
人によって定義はあるでしょうが、僕は「職人と作家の間」だと考えています。革細工にしても銀細工にしても和紙にしても、自分の作りたいものをつくる一方で、お客様のオーダーも受けて作っている。そんな人たちでしょうか。
−赤井さんにとってのAKAI Factoryの面白さってどんなところでしょうか?
赤井:
ここが名刺がわりになることです。まちづくりをやっている人と繋がる機会が増え、他のエリアではどうしているのかって共有できるネットワークができました。それから、僕は中学から市外に出ていたので飯能にほとんど知り合いがいなかったのですが、この街で暮らしている人や商店街に知り合いが増えたと思います。
−それでは、難しさや課題に感じていることは?
赤井:
金銭面・・・ですかね。場所の運営って事業としては成り立たないと思います。僕の場合は、この場所は親が所有していますし、本業での稼ぎがあるからこそできているわけで。AKAI Factoryで得た利益は、まちづくり活動の経費分くらいにしかなっていないですから。
−今後はAKAI Factoryをどのように育てていきたいですか?
赤井:
今の入居者は、クラフトの仕事一本でやっていける人たちばかりですが、今後はチャレンジ枠を作りたいです。まだ自分の作るものでは生きていけないけれど、将来的にはやっていきたいという人を応援したい。それからアーティストにもあってみたいし、最後は美術館を作りたい。
−ギャラリースペースもそんな意図で作られたのでしょうか?
赤井:
ギャラリースペースは、入居者が欲しいと言って、自分たちでつくるというからまあいっかと。いま(2019年4月取材時)は、3周年の展示をやっていますが、入居しているクラフト作家がどういうものを作っているのか紹介する企画です。
−運営はどのような形で行なっているのでしょうか?
赤井:
月に一回、大家の僕と入居者とでミーティングをしています。困っていることとか不便なこと、もっとこうしたらいいんじゃないかっていうことを出してもらう場所です。WEB SHOPも入居者の発案で作りました。僕が決めて引っ張るというよりも、誰かがやると言ったのをサポートする形ですね。
−次に、商店街の中で運営されているコワーキングスペース「Book mark」について、立ち上げの経緯から伺えますか?
赤井:
あの場所は本屋の跡地で、空き家になっていた場所です。商工会の方がその空き家でアート作品の展示企画を行ったのですが、そこに作品展示をしたのがAKAI Factoryの入居者で和紙作家の加茂孝子さんでした。そのご縁で大家さんから場所活用の相談をいただいたのがきっかけですね。
大家さんの希望として、「若い人が集まる場所にしたい」ということでしたので、シェアオフィス兼レンタルスペースをご提案して2017年4月に始めることになりました。
−どのような方々が利用しているのでしょうか?
赤井:
広告ディレクター、イラストレーター、学校の先生、西川材のNPOをされている方がシェアオフィスに入居しています。レンタルスペースとしては、ヨガの先生や染物作家さんがワークショップの場所に使用しています。物販スペースもあるので、純粋なシェアオフィスとは言えないですね。。
−シェアオフィスの入居者が店番もされている?
赤井:
僕を含め運営メンバーが5人いて、その5人で物販スペースやイベントスペースの運営をしています。シェアアトリエの入居者でもある広告ディレクターが5人のうちのひとりなので、彼が平日は店番もして、土日は輪番で回している感じです。
−シャッターが多くなった商店街の活性化、という文脈で運営されているのでしょうか?
赤井:
当初はそういう面もありましたが、空き店舗ってなかなか貸してもらえなくて。シャッターを開けるハードルの高さを感じてからは、商店街に限定しない方が自由度があると考えるようになりました。
−AKAI Factory と Book mark以外にはどんなお仕事をされていらっしゃるのでしょうか?
赤井:
まずはフリーランスとして広告制作の仕事です。ライターの仕事は少ないですが、撮影の仕事はポツポツとあります。
それから、隣の横瀬町で行政から委託を受けてやったまちづくりの仕事。3月までのプロジェクトでしたが、給食センター跡地の利活用について、住民参加型のワークショップを行いました。新しいものを取り入れる町長がいて、規模が小さいので小回りが利く点は横瀬の強みですね。
−活動の範囲は飯能にとどまらないんですね。
赤井:
まちづくりは飯能だけでなく、横瀬の人とか秩父の人とか、周辺の市町村の人たちと一緒にやればいいと思っています。
−赤井さんは、飯能に愛着はお持ちですか?
赤井:
ここ数年でようやく持つようになりました。AKAI Factoryを始めるまでは、僕も「飯能なんて何もない」派だったのですが、この土地を選んで移住してくる人たちの生活や大事にしている価値を見て、いい街だと認識するようになりました。外から来た人たちの方が、場所の魅力が見えていますよ。
−飯能の魅力というと?
赤井:
小さな街なので、なにをやっても一番になれる点ですね。
−これから繋がりたい人は?
赤井:
プレーヤーはいるので、プロデューサーといいますか、総合ディレクターのような人ですね。例えば、「大地の芸術祭」の北川フラムさんのような。僕たちを導いてくれる、大きなイベント企画をやってくれるような人です。
−ムーミンバレーパークもできましたし、人が動きつつあるという実感はありますか?
赤井:
バレーパークに来る人が飯能の街に来るかというと、来ていないですよね。それは、ディズニーランドに来た人が浦安に来るかというのと同じだと思います。僕たちがやっていることって、人気を爆発させたいって企みじゃないんです。住んでいる人、関わる人が幸せになれればいいと思っています。つまり、仕事もやりたいこともほどほどに。バランスが取れる街になればいいですね。
−バランスですか。
赤井:
仕事が忙しいと東京で暮らしているのと同じになってしまうのではないでしょうか。東京だと、家賃を払うためにお店をやるようなことになってしまう。そうするとなぜ始めたのかがわからなくなってしまう。
その点、飯能に移住してくる人って、自分の時間を求めて移り住む人が多いんです。自営業で子どもとの時間を持ちたい人など、ライフスタイルとして選んでここにやってくる。
−生活コストが低いからそれができると。
赤井:
そうですね。生活コストは安いのですが、市内の経済だけでは回らないのが飯能の弱点です。AKAI FactoryやBook markで関わっている人も、ものを売ったり稼いだりするのは東京ですね。裏返せば、都内で打ち合わせがあってもすぐに出ていけるので、その点も含めて、飯能の良さなのだと思います。
【編集後記】
赤井さんのお話の中で一番印象に残ったのは「何にもないのなら何か作ればいい」という考え方だ。問題に際して、担い手として自分の関わる社会にプラスの価値を生んでいく。そんなマインドが、考え方のベースになっている点にとても共感をした。
クリエイティブ」という言葉は、職業ではなく生き方を指す。自らの暮らしを、他の誰かに委ねるのではなく、自分の責任と感性で作っている人間。それがクリエイティブな人=「クリエイター」なのではないかと、私は思う。そういう意味で、赤井さんはまさに「クリエイター」だ。
AKAI Factoryの入居者はみんな個性的。寡黙な人もいるし、明るくフレンドリーな人もいる。企業が作る場にはなかなか見られない体温を感じるコミュニケーションがある場だ。「いい感じ」の空気が流れる人が集まる場所に身を置けば、暮らしは面白く変わっていくだろう。
(取材・大竹悠介)